ジャパンメディカルアライアンス 40周年記念サイト

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メッセージ

JMAでの思い出 ~昔を振り返って~

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海老名メディカルサポートセンター 放射線科
K・H(勤続33年)

私が法人発祥の地であります東埼玉病院に診療放射線技師として入職したのは今から三十八年前の昭和五十年、二十五歳の歳でした。病院は二階建てのコンクリートむき出しの飾り気のない建物で、当時としては大変めずらしい外観でした。
玄関を入ると右側に下駄箱係の職員に笑顔で挨拶され、院内は上履きに履きかえ出入りしておりました。玄関前の左側には小さな人工の池があり鯉がゆうゆうと泳いでおり、時折水面から顔をだして患者さんをお迎えしていたのを覚えております。

当時、放射線技術科の設備は一般撮影装置、断層撮影、造影検査のためのⅩ線TV、病棟用の移動式ポータブル撮影装置、そしてオペ室で使用する外科用イメージでした。連続血管撮影装置が導入されたのはしばらくたってからの事です。放射線領域にもコンピューターが導入されフィルムからデジタルになるとはだれもが予想出来なかった頃です。
放射線科職員は技師長と私の二人でしたが、私は診療放射線技師学校卒業したての新人でしたので病院のご厚意で文京区千駄木にあります日本医科大学附属病院放射線科にて三ヶ月間研修をさせて頂きました。その間、大学に於ける最先端の放射線設備と検査を目のあたりにして驚くと共に放射線検査を担当する技師としての責任の重さを痛感しました。
後に連続血管撮影装置、多軌道断層撮影装置、CT断層撮影装置が導入されました。CT断層撮影装置は脳実質が画像として写し出される事のインパクトと、脳出血と梗塞が一目で画像診断出来ることに感銘を受けました。しばらくして頭部だけではなく胸腹部断層も出来るホールボディーCTも実用の段階まで進み世に出てきましたが、現在のような短時間撮影のマルチスライス、ヘリカルCTに発展するまでには少し時間がかかりました。
脊髄が見られる革命的な画像診断装置のMRIが導入されたのはその後しばらくしてからの事です。

当時、東埼玉病院は住民サービスのため夜間診療として週一回、二十時三十分まで診療を行なっておりました。夜間診療が終わり一段落してから先生方と近くの食事処で一緒にお酒と食事を頂き、仕事の話や人生の話等楽しいひと時を過ごさせて頂いたのをなつかしく思い出します。今、この寄稿文を書きながら診療放射線技師として、又、一人の人間として色々と育てて頂いたことを改めて思い返しております。
病院の規模も小さく医師も職員も隣の息遣いが聞こえる程の家族的な病院でした。入職して最初の慰安旅行は先生方の車に分乗しての小旅行でした。昼休みには病院の屋上で同僚と毎日のようにキャッチボールをしました。入職して八年後の昭和五十八年神奈川県海老名市に総合病院として開設が決まり私も放射線科技師長として赴任する事とになりました。開設準備のため埼玉県幸手町から神奈川県海老名市に家族と一緒に引越し新病院の開設準備と業務運営の重責を担うことになりました。
しばらくは市内にありました開設準備室で業務を致しました。建屋が完成してもすぐには開業できませんので、警備のため交替で病院の当直業務も行いました。夜間一人のためなかなか眠れなかったのを覚えております。開設当時は事務職員も足りなかったため事務当直も兼務で行い、給食関係のお手伝い等もさせて頂きました。惣菜を隣町のスーパーに買い出しに行き、私の家内も調理のお手伝いを致しました。初代院長の故齋藤名誉院長は放射線科医でもありましたので長い間、画像読影を担当されましたがその間放射線科全般に渡る業務のお手伝いをさせていただけたことを技師として誇りに思っております。
海老名総合病院は地域医療を目指し地元に密着した医療を提供し、救急医療にも力を入れてきました。その後の病院の目覚ましい発展は皆様もご存知の通りと思います。平成十八年、田中院長が内山先生に院長職のバトンをお渡しする事になりました。三階の講義室で院長引継のセレモニーが行われ、多くの職員がかけつけて感動したのを記憶しております。と同時に私も総合病院放射線技術科から海老名メディカルサポートセンター健診部門に異動となり、センター長であります故榊原先生と一緒にお仕事をさせて頂くことになりました。現在はヘルスサポートセンターで午前は診療放射線技師として、午後は健診センターの事務管理職として勤めております。入職してからの在職期間中は理事長、院長それぞれ五人の先生方にお仕えするところとなりましたが、体力、気力についても時の流れを感じるところです。
ふと気が付き周りを見渡すと若い先生方はじめ職員の皆さんが、きびきびと業務を行っております。科学と医療技術は絶え間なく進歩しますが、どうぞ後世の方々が一層の医学の発展とJMAに寄与されます事を念じて、バトンを繋ぎ寄稿文と致します。

私の財産

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東埼玉総合病院 管理部総務課
A・N(勤続33年)

法人40周年おめでとうございます。
この慶事にこうして在籍させて頂いている事を誇りに思うと同時に衷心より感謝申し上げます。

原稿依頼をお受けして改めて自身のJMAでの思い出を振り返ってみましたが、とにかく沢山あり過ぎて何を取り上げて良いのやら迷ってしまいますが、ひとつ、現在ではなくなった「勤続5年で海外旅行」を挙げさせて頂きます。

1985年に中国に渡航しましたが、当時は中国政府の指導で当日直前まで宿泊先のホテルは全く知らされず…(現代版ミステリーツアーといったところでしょうか)。最終日はなんと桂林から広州への飛行機も定員オーバーで全員搭乗出来ず、男性5人で涙を呑んだ記憶も昨日のように思い出されます。
こんな珍道中も大所帯となった現在では不可能なんでしょうね。

それと我武者羅に働いたことでしょうか(汗)。特に海老名総合病院開院当初は、毎日午前0時までは当たり前のように働きました。それが出来たのも「夢」があったからでしょうか・・・そして何と言っても「素晴らしい仲間たちと出会えたこと」が私の一番の財産です。
これかも“仁愛の精神”を肝に銘じ、日々研鑽してゆく所存です。

そして今後のJMAを担う仲間たちには10年後、20年後もこの40年の歩みによって得られた確固たる“仁愛の精神”を糧とし、更に邁進されることを祈念いたします。

心から感謝いたします

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在宅医療連携拠点事業推進室
C・H(勤続36年)

法人40周年の今年、振り返ると私も1976年に入社して36年が過ぎました。
共に年齢を重ねてきたのかなと感慨深いものを感じています。

当時の東埼玉(総合)病院は、コンクリート打ちっぱなしの一見倉庫のような2階建ての建物でした。
程なく増築され4階建てとなりましたが、工事中の斫作業のもの凄い騒音は今でも記憶に残っています。
職員数も50~60人の1病棟で、平成12年までの27年間、毎週水曜日には夜間診療も行われていました。

入社してから主に30年近くは経理関連業務に携わらせて頂きました。昭和48年に埼玉県に法人が設立されてから10年後に海老名市に進出し介護事業も含め幅広く展開していきました。
規模も大きくなり業務量も増えましたが、何より「夢」があり無我夢中で家庭と仕事を両立しながらも楽しく仕事ができました。

東埼玉総合病院は、平成24年5月に法人発祥の地、杉戸町より幸手市に新築移転しました。
既に旧病院は取り壊され更地となり、当時の面影が無くなり寂しくなりました。
この40年医療を取り巻く社会的背景は大きく変化し、急速に進む超高齢化社会のなか医療と介護・福祉の連携が求められています。

仕事人生も終盤にさしかかり東埼玉総合病院で元気に働いていることに、これまでお世話になりました上司、先生、同僚に深く感謝いたします。法人の発展と未来を担う若い職員の皆さまのご活躍を祈念いたします。

法人設立40周年を記念して~当時の思い出~

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清地クリニック
M・O(勤続37年)

―――― 昭和51年~昭和57年 東埼玉病院 当法人(病院)への入職時

私は、病院が開設して3年目の昭和51年5月に事務職として東埼玉病院へ入職いたしました。当時の病院は鉄筋コンクリート造2階建ての建物で、外壁はコンクリート打ち放しで、塗装されておらず、まるで倉庫の様な外観であったと記憶しています。

入職時は医事課配属となり、受付業務、点数計算、レセプト作成等を担当しましたが、当時の受付はオープンカウンターでは無く、ガラス越しに患者さんとやりとりを行っており、高齢の方も多く言葉が聞き取りにくいため、受付前で直接お話を伺うことも多々ありました。また、会計時の点数計算も現在のように電子カルテでは無いため、手計算にて行ないレセプトも全て手書きにて作成しておりました。また、毎週水曜日は夜間診療として午後8時30分まで受付を実施しており、たくさんの患者さんがおいでになっておりました。入職以前には日曜日も診療を行っていたと聞いております。

病院では急患の患者さんは専門外であってもお断りせず、全て診療を行う方針でありました。杉戸町での小児科は東埼玉病院以外には無く、診療時間内は当然ながら夜間に急患でこられる大多数は小児科でした。
当時、男性職員が少なかったため事務当直も週2回は当たり前で、2日連続当直ということも度々あり、懐かしい思い出です。

昭和53年に病院が2階から4階に増築され、3病棟181床となり、外装も白く塗装され、やっと病院らしくなり患者さんからも、大きな病院ができて良かったと言われました。
レセコンも導入し、会計処理やレセプト作成などコンピュータ処理となりましたが、レセプト発行のため3日間の処理作業が必要であり、大変な作業でした。(磁気テープのため差し替えが必要で夜間しか作業ができなかったため。)

昭和55年頃より病院業務を外れ、新病院設立のための準備室に異動し、関東周辺の土地等の調査のため連日車で移動し、準備室にも週1回程度の出勤ということもありました。
海老名市に新病院設立が決まった時は、銀行や海老名市に提出する事業計画書作成のため、1週間準備室に缶詰となり、提出書類を作成した思い出があります。

昭和57年頃より事務用パソコンの導入が始まりましたが、簡単な動作説明しか行われないため、当初ワープロで就業規則を打ち込み、練習を行いました。現在のようにハードディスクでは無く、5インチのソフトフロッピーディスクにソフトが入っておりこれを立ち上げて作業を行っていました。動作は遅かったですが今まで手書きしていた物がデータとして保存され、簡単に修正ができ印刷もきれいにできるようになった事が驚きでした。

―――― 昭和58年~平成5年 海老名総合病院

昭和58年に海老名総合病院開設準備室が開設され、海老名市へ転居した当時は海老名駅周辺に大きな建物は無く、駅から病院の建物が良く見えておりました。また、当時の海老名市の人口は約65,000人程度だったと記憶しています。
病院開設準備として、職員の募集、面接、採用等がありましたが、看護職以外は予定どおり採用が決まりましたが、看護職の採用は今と同じく募集してもなかなか集まらず、応募された方はほぼ全員採用し、東埼玉病院より転勤の看護職とあわせても開設ぎりぎりの人数でした。他の準備としても診療に関わる医療機器、什器備品、書類等まったく0からのスタートのため、紙ベースの書類等は東埼玉病院で使用している物を一部変更したものを使用し、これ以外にも保健医療機関の申請や職員採用時の健康保険や雇用保険、労災保険加入の手続きなど初めて行う業務のため、いろいろ勉強させていただいた思い出があります。

昭和58年9月11日に海老名総合病院開院披露パーティが行われ、当日はたくさんの方々がお祝いにおいでいただきましたが、事務職としてはこの後9月16日よりの診療スタートの方が気がかりでした。医師・看護師を始め職員も少ない、処置材料・機器備品類も少ない、ないないづくしの診療開始でたくさんの患者さんが受診にこられたら、パニックになるのではないかと心配ばかりでしたが、当日は外来診療も問題もなく終了し、ほっとしました。ただ入院治療についてはしばらく行わないと聞いておりましたが、開院初日に1人入院治療の必要な患者さんがおられ、入院患者第1号となりました。
海老名総合病院には開設より10年間勤務させていただき、この間に病院における事務業務を全般的にやらせていただきました、この時の経験が私にとっては大きな財産となりその後の業務に役立ったものと自負しております。

―――― 平成5年~

その後に、東埼玉総合病院増築、特別養護老人ホームさつき、特別養護老人ホームはなみずき、東埼玉総合病院附属清地クリニックの開設等にも関わらせていただきました事は、人生の中でもそうそう経験できる事ではないと思ってます。

現在は、東埼玉総合病院附属清地クリニックおよび埼玉地区HH事業部にて業務を行っておりますが、ふと気がつけばもう入職してから37年間が過ぎており、入職当時から現在までの法人の発展は目覚ましく、地域に密着した医療、お断りしない救急医療に法人がまじめに取り組み、創業時の「超我の奉仕」を実践した成果ではないかと思っております。

前進し続ける法人

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海老名総合病院 放射線技術科
M・S(勤続22年)

法人設立40周年おめでとうございます。

私が診療放射線技師として、海老名総合病院放射線技術科に入職したのは今から22年前の1990年4月でした。
入職した当時は大変忙しかった記憶があります。紙カルテで予約制ではなく早く来た順となっていました。
現在の救急外来の位置に整形外科と外科外来があり、9時の診療開始時間頃には椅子が足りなくなるほどの患者さんが、診療開始を待っておりました。10時過ぎには各科から一斉にレントゲン検査の依頼があり、照射録を手に持って受付に患者さんが押し寄せて来ました。当時はフィルムでしたので自動現像機の上に照射録を来た順に並べ撮影していきましたが、撮影しても、撮影してもなかなか減らない・・・新人の私としては悪夢の様な毎日でした。
お昼頃になると正面受付の待合室は会計・薬剤待ちの患者さんであふれ、まるで劇場のロビーに紛れ込んだような錯覚に陥ったものです。

納涼会は8月の厚木鮎祭りに合わせて駐車場横の芝生(現在のA館付近)で開催されました。それぞれの部署で焼きそば・焼き鳥・かき氷などの店を担当し食べたり飲んだりと楽しい一時を過ごし、打ち上げ花火を鑑賞しました。小規模ながら職員全体の交流の場がありました。(大きな建物もなく駐車場から花火が良く見えました) その後は病院の発展に伴い職員数も増え、納涼会も職員によるライブ演奏・女装コンテスト・早飲み大会・綱引き大会とプログラムを増やし、当時東病院で勤務していた私は放射線技術科でフリーマーケットを出店した思い出があります。

今ではJMAの施設数・職員数も増え、すべての職員の顔がわかるという職場ではありませんが、職員の皆さんが同じ方向を見据え、前進し続ける法人であってほしいと祈念いたします。

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