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東北地方太平洋沖地震 現地レポート

東埼玉総合病院所属の小野医師(内科)が、東北地方太平洋沖地震後すぐに、故郷である岩手県釜石市を訪れ、HMAT(H Medical Assistance Team) のメンバーとして被災者の診療を行ってきましたので、そのレポートをご紹介させていただきます。

「HMAT」


3月11日、私の生まれた釜石は津波に襲われました。

釜石から届いた一通のメールがすべての始まりでした。
「まだ数ヶ月や数年は医療不足は続くべがら、立さんの力が必要だど思う。」
高校時代、共にラグビーボールをおいかけた親友、Hからでした。彼は、お兄さんが開業しているH神経内科クリニックの事務長です。(今後Hちゃんと記します。Hちゃんは、ご両親と奥さまと一歳の愛娘を津波で亡くされました)。
「なんとしても、釜石に行かなければならない」釜石行きを決意しました。

すぐに、院長先生と三島先生の許可をいただき、飛行機と新幹線と高速バスのチケットを握りしめ、4日後には東北へ向かうJALの中で奥羽山脈を眺めていました。その後新幹線とバスを乗り継ぎ釜石に到着すると、そこには、泥だらけの長靴をはいた懐かしいHちゃんが手を振っていました。しかし、その顔は、私が決して理解しえない、絶望感、耐えがたい悲しみに満ちていました。黙ってその手を握ると、目の前がゆっくりとかすんでいきました。

被災地現地写真

釜石は悪夢でした。住宅や店舗の周囲は、がれき・家屋の残骸・ドロが山積みとなり道路にはみ出していました。JR山田線の線路が信じられない角度で曲がっており、ミサイル空爆を受けたようでした。火事で黒こげになった自動車がひっくり返っていました。700体以上の死体が見つかりましたが、まだ600人以上の行方が分かっていません。私の生まれた釜石の人々はそんなところで暮らしていました。

釜石到着の翌日、H神経内科クリニックにて仕事を開始しました。Hクリニックは、津波による被害を受け、仮の診療所にて診療を開始していました。運営開始はまさに、ボールペン1本、診察机、聴診器1つから調達しなければならない状況でした。院長先生は診療所にて診療を行い、私はHMAT(H Medical Assistance Team) のメンバーとして、薬剤師、看護師と3人で、避難所を回診するという日々でした。患者診察の度に、患者情報、vital sign、身体所見、処方箋のすべてを紙カルテに記録し、翌日薬剤師が再度訪問し薬剤を届けました。しかし、翌日に訪問すると前日には問題なかった人が調子をくずしており、再度、往診することもありました。また、避難所で、自衛隊の医療チーム、日赤、AMDA(association of medical doctors of asia )県立釜石病院の医師と出会うこともありました。

被災地診療風景

釜石は私にたくさんの疑問を投げかけました。1歳の娘の消息を尋ねる若い母親、親子三世代5人で固まって座っている家族、ご主人と子供を亡くし壁を見つめる女性、任天堂DSで遊んでいる子供達、おにぎりを頬張る子供を見つめる父親、毛布を抱いて何かに祈るように手を合わせ眼を閉じているお年寄り、この姿に茫然としました。自分に何ができるだろう?これはいつまで続くのか?はたして現実なのか?頭を垂れて、苦しみや悲しみに耐えている人々がいる。人間がこんなに不幸でいいのだろうか?これは、政府の仕事ではないだろうか?今まで政府が国民を貧困のままにしておいてはいけないという法律を出したことがあっただろうか。自分はなぜ医者になったのだろう?自問自答、堂々巡りを繰り返しました。

やはり、父は私の北極星でした。父と話すと自分の位置が分かります。今回、脳出血で入院中の父を尋ねると、静かに眼を開け「おお来たか、これで釜石の人達に恩がえしができる」涙を流して喜んでくれました。私が医者になった理由のようです。今でもときどき父の声が聞こえます。避難所の前を持ち歩いていると、少し肩に力が入っているのに気づきました。「お前、当たり前のことを当たり前にやれよ」父が話しかけてきました。高校生の時、電車でお年寄りに席を譲ったことを、少し自慢げに話した私に対する父の言葉でした。「うん、釜石に帰ってきて、釜石の人達の診察をする。当たり前だ、当たり前にやればいい」気持が軽くなりました。自分は一生、この父親の息子のようです。

被災地診療風景

釜石には数々の、心に残る言葉がありました。一つはある自衛隊の方の発言です。釜石災害対策本部の会議で、その隊員の「根浜地区で食糧が届いてない地域があるそうですが・・・」との質問に対して、市役所の担当者が、「それは一時的なものです」と答えると、その人は言いました。「我々は、食事に困っている人が一人でもいるのはいやなんです。食糧の届いていない人がいるのであれば教えてください。われわれが行きますから」。一人の例外も許さない、必ず全員の命を助ける人の言葉でした。

二つ目はH院長先生の言葉です。私が再度開業されるか尋ねた時、H先生は答えました。「おれは鵜住居の人達に育ててもらったんだ。だがら、もう一度同じ場所で開業するよ。患者さんが一人でもいるかぎりね、そこで診察をすんだ。それでいんでねえがなあ。」釜石到着の翌日のこと。何も言えませんでした。とても顔を上げられませんでした。

Hちゃんの言葉もありました。釜石の早い復興に際して、道路脇の瓦礫やどろを重機で取り除く必要がありますが、その下には行方不明者が眠っているのかもしれません。Hちゃんは言いました。「最後の一人になるまで行方不明者を捜すべきだな。数十年後、誰かが、当時の釜石の人達が何をしたのか勉強した時に、われわれは行方不明者を、最後の一人になるまで探しました という記録を残しておきたい」 Hちゃんは私よりも大人でした。

日本全国から救援物資が届き、救いの手が差し伸べられました。釜石在住のすべての乳児は、今後1年間ミルクを買う必要はないそうです。釜石駅前の交差点では長野県警の警察官が交通整理をしていました。家では奥様と子供達が、お父さんの帰りを待ちわびていることでしょう。鵜住居の街中を20人ほどで疲労困ぱいの様子で歩いていたのは、群馬県警の警察官でした。日本国民の皆様、群馬県警は正義のためにがんばっていらっしゃいます。釜石のいたるところで兵庫県と大阪府の救急車が走りまわっていました。大阪の救急車が病院に「私は今どこを走っているのでしょうか」と電話をかけてきたらしいです。釜石の人達は、大阪と兵庫の救急車を一生忘れません。いつか大阪や兵庫の人が、釜石の人に出会った時、身に覚えのないお礼をうけることになるでしょう。私も車のハンドルを握りしめながら、ありがとうございますと言い続けました。

この文章を書いている5月16日現在、避難者名簿で名前を確認できた人、まだ確認できない人もいます。しかし、鉄と魚とラグビーの街、釜石の人々はたくましく、堅実にゆっくりと復興への道を歩み始めているようです。家族を亡くし、家財も失ったというのに。被災した沿岸の人々や、それぞれの持場で黙々と復旧作業をしている人々の姿を見て、高村光太郎の詩を思い出しました。

「牛」

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも自分の行きたいところへは まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない ただでは躍らない
がちりがちりと 牛は砂を掘り土を掘り石をはねとばし やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐことをしない
牛は力いっぱい地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じ切って行く
ひと足ひと足牛は自分の力を味わって行く
ふみ出す力は必然だ うわの空のことではない
是が非でも出さないではたまらない足を出す牛だ
出したが最後 牛は後へはかえらない
牛はがむしゃらではない けれどかなりがむしゃらだ
邪魔なものを二本の角で引っ掛ける 牛は非道をしない。

(中略)

利口でやさしい眼と なつこい舌と 厳粛な二本の角と 愛情に満ちたなき声と
すばらしい筋肉と 正直な涎を持った大きな牛
牛はのろのろと歩く 牛は大地をふみしめて歩く 牛は平凡な大地を歩く

この詩を、今回不幸にも被災され、絶望感に打ちのめされたにも拘わらず、正しい一歩をふみだそうとしているすべての東北人に捧げます。


最後に:
この病院のすべてのスタッフに感謝します。院長先生と三島先生は、「自分のふるさとに帰って助けたいと思うのは自然なことだ。病院でできるかぎりのバックアップはする」と言っていただきました。中野先生には6人の入院患者を快く引き受けていただきました。福田先生、依光先生、遠藤先生には外来、当直、早出、残り当番をお願いしましたが、気持ちの良い笑顔をみせてくれました。薬剤部の皆様は必至に薬をかき集めてくれました。カバンの中にひっそりとお見舞を入れてくれた方もいました。そして、そしてたくさんのスタッフが、がんばれと声をかけてくれました。

皆様、小野立はがんばれましたよ。

東埼玉総合病院 内科 小野立医師

東埼玉総合病院 内科医師 小野 立